NEWS - 2026.02.27
対談イベント記録「市場の目線/批評の視点——Modern Legacyセールをめぐる対話」
国内の重要なシングルオーナーコレクションに焦点を当てた「Modern Legacy : An Important Japanese Collection of 20th & 21st Century Masters」セールの先行下見会において、批評家・南島興氏を迎え、コレクションというまとまりをどう読むか、対談イベントを実施しました。本イベントでは、下見会という一回限りの総体を手がかりに、作品群とコレクションの面白さを市場と批評、それぞれの観点から辿りました。本稿では、両者のズレも含めて対話を記録し、作品や作家・展示を見る解像度を上げるヒントとしてお届けします。

【開催概要】
対談イベント「市場の目線/批評の視点——Modern Legacyセールをめぐる対話」
日時:2026年1月29日(木)18:00-19:30
会場:代官山ヒルサイドフォーラム
登壇者:南島興氏(批評家)、加来水緒(SBIアートオークション 営業企画部次長)
【登壇者プロフィール】
南島興(みなみしま・こう)
批評家。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)、博士課程後期中退(美学)、横浜美術館学芸員を経て、現在はフリーで執筆・レクチャー、またアートライティング講座やYoutubeチャンネル「美術どうでしょう」の企画など。全国の常設展・コレクション展をレビューするプロジェクト「これぽーと」主宰。共同通信「見聞録」連載中。
加来水緒(かく・みお)
SBIアートオークション株式会社 営業企画部次長 兼 オークショニア。慶應義塾大学大学院 美学美術史学修了。2008年に国内アートオークション会社に入社、東京、香港、シンガポールにおいてアートオークションの企画・運営を行う。2021年より現職。2019年より青山学院大学総合文化政策学部にて「マーケットから見た美術史」の授業を担当。
1. 第一印象:個人コレクションの手触り
加来:
美術館で収集の担当もなさっていた南島さんから見て、本先行下見会はいかがでしょうか。
南島(敬称略、以下同じ):
美術館のように明確な方針に基づいた収集というより、その時々の関係性や注目、美意識が積み重なって、時代の厚みが刻まれている印象です。またリトグラフやドローイングのような小ぶりな作品など、美術館収蔵品とは異なる「個人が長年愛好してきた手触り」を感じる作品が複数ありました。
時代としては中心は50-60年代にありつつ、その周縁への広がりもあるコレクションですね。
2. 下見会という展示:価値のヒエラルキーと「分散」の前提
南島:
展示空間の中心には、価格帯でも最上位に位置する藤田嗣治《エレーヌ・フランクの肖像》が据えられています。こうした価格による価値のヒエラルキーが明確であるところが、美術館展示とは大きく違います。
加来:
下見会は入札検討者が実物を見て判断する場で、ゴールは購入・所有です。高いものが良いとは限りませんが、仕組み上「高額作品をどう見せ、どう買っていただくか」は重要な前提です。
見せ方としては、コンディションが見分できるクリアさを重視し、同一作家や同時代・関連ムーブメントは近くに配置しています。会場の自然光も活かし、家に飾った時のイメージができる空間を意識して展示しています。
南島:
一般的に美術館は網羅性(時代の連続性)を重視し、どこか欠落があると一点の「お宝開陳」展示にもなりやすい。一方オークションは競りを通じて作品が分散することが決まっていて、総体を永続的に保持する前提ではないところが、展示構成上の観点として根本的に違うようですね。
そして目の前の総体は、まさに今この瞬間だけ存在している。その一回性が特殊で、コレクターの活動というおぼろげなものを、いま限定で論じられること自体が特殊な体験だと感じます。つまり、いま私たちはなくなるものについて語っているわけです。

3. 作品群の読み:時代ごとの論点
3-1. 19世紀末から20世紀初頭:周縁性/遅れの創造性
南島:
このメイン展示室を見てまず思うのは、エドワルド・ムンク、藤田嗣治、ジョルジョ・デ・キリコ、エゴン・シーレ、タマラ・ド・レンピッカ……どこか周縁的な要素を感じさせる作家が並んでいるということです。
ムンクはノルウェー、シーレはウィーン、藤田はエコール・ド・パリの中でマイノリティとして評価されてきた。デ・キリコはギリシャ生まれでイタリアの作家でもあるけれど、どこの流派にも属さず、形而上絵画という独自の作風で生き続けた。
もう一点、ここは生年で見るとさらに面白くて。
例えば《アヴィニョンの娘たち》(1907年)をピカソが25~26歳で描いたとき、デ・キリコは19歳、シーレは17歳の頃です。つまり彼らは、高校生くらいの時に10歳上の先輩たちがキュビスムを始めた。また未来派は1909年のマリネッティによる「未来派宣言」に始まります。こうした大きな動きを見て、下の世代は「自分はどうする?」と考えなかったはずがないです。
そこでの選択肢は大きく三つ。一つは亜流になっていく。キュビスムならキュビスム風の絵画や写実的な画法との折衷として生きていく道もある。一つは古典回帰。これは前衛を否定するという立場ですね。そして、もう一つは第3の道として孤独に自分の作風を確立する道です。私の感覚では、デ・キリコはまさにその路線で、前衛とは別の方向へと独自の作風を立ち上げていくんです。これを「じゃあ今だったら?」とか「1960年を基準にしたら「遅れた」人は何をした?」みたいに考えるのも面白い。
加来:
「周縁性・遅れ」という観点では、極東・日本のコレクションであること自体も、欧米中心の物差しに照らせば通じるところがありますね。
南島:
今回のデ・キリコ《偉大な形而上学者》は、MoMA所蔵の同名油彩(1917年)を立体化したものに見える。そういう反復を見ると、デ・キリコは、形而上絵画が評価されたことで「これじゃないといけない」と縛られていったではと感じます。マーケットとの関係のなかで苦闘した人生だったのかな、と。
私は大学時代ジョルジョ・モランディを研究していたんですが、デ・キリコ、カルロ・カッラ、モランディの3人は、形而上絵画を1910年代に取り組んだ後に、全く別の道に向かいます。デ・キリコはその後も同じ作風を続けた。カッラは古典回帰。モランディは静物画へ進んだとされます。だから「前衛から遅れた世代」のパターンとして、デ・キリコ型/カッラ型/モランディ型みたいな見方ができる。作家がどう変遷したのか、批評としても研究としても面白い。

3-2. 戦後直後:実存のムードと別の可能性
南島:
ジョルジョ・ルオーやベルナール・ビュッフェには、日本の1950-60年代における実存主義的なムードと通じるものがあり、すごく時代の影を感じますね。
加来:
両作家は国内にもコレクターが多く、オークションにも比較的出ます。今回の方もお好きだったようで、コレクションに複数点入っています。
南島:
そう、だから余計に「日本の方のコレクションだな」という感じがする。
作品で言うと、ビュッフェ《Rue de village》が1946年作というのが興味深い。戦後直後で物資もないし、作品が消失しているケースもあるし、そもそも絵を描くことが自体が難しい時代。この時期の作品は相対的に少なく、46年作が残っていること自体に希少性があると思います。
しかも本展示では、隣に1953年の静物画(《Nature morte aux bouteilles》)が並んでいて、そこでは黒い輪郭線で、いわゆるビュッフェの作風に至っている。つまり46年作は、その一歩手前で、まだ作風が固定化しきっていない。デ・キリコの画業とも重なるかもしれませんが、私には、本作に「ビュッフェになる前のビュッフェ」の可能性が見えます。
作家が誰かになっていく、作家って何なのか、コレクターやマーケットとの関係は何なのか……そういうことに思いを馳せる入口になる作品だと思います。
加来:
ビュッフェにも、デ・キリコみたいに悩みがあったのかもしれないですね。
南島:
ルオーも制作年が1940-48年で、戦争の色を強く残しています。それから面白いのが、ビュッフェもルオーも、どちらも画面の真ん中に「道」があることです。一つは何もない道、一つはキリストがいる道。どちらにも戦後直後の祈りや実存的不安が反映されていて、この2点の取り合わせは興味深いなと思いました。

3-3. 抽象/具象:二分法をほどく
南島:
50-60年代はアンフォルメルや抽象表現主義の動きを筆頭に抽象の時代とされますが、表面的な抽象/具象という区分はあまり重要ではありません。抽象的に思える作品にも具象的なモチーフは入り込むし、色のトーンの調整や構成によっては具象的に見える作品も、抽象的に感じる。難波田龍起の《三月の建物》は、右上の緑の丸みたいな形が、形而上絵画に出てきそうなモチーフに見えたりして、美術史上の具体的な作品への参照がいくつか混ざり合っている感じがします。構成主義的な意味での抽象よりむしろ手仕事的な要素もありますね。そういう様々な形式やモチーフが混在する時代として見た方が、コレクションの厚みも理解できると思います。
加来:
ムンクや藤田も集めつつ、こういう戦後抽象も拾っている。多様性が魅力でありつつ、きちんと時代ごとの要所を押さえている感じが面白いですよね。
南島:
はい。ここで重要なのは「抽象か具象か」で割り切らず、例えば山田正亮なら静物画からworkシリーズへみたいに、連続性(バリエーション)として捉えることだと思います。
3-4. 具体以後:構造を変える試みと再評価
南島:
このコレクションの中心の一つは、具体美術に関係した作家たちの「その後」だと思います。具体そのものというより、海外で直に触れて帰ってきたりして、そこから絵画の構造そのものをどう変えるかに実直に向き合っている作品がある。堂本尚郎《連続の溶解 No.19》は、1964年のベネチア・ビエンナーレでの受賞からおそらく2年後の作品ですが、地塗りの赤に黒を重ねて、図と地の関係の意識的な更新をはかろうとする問題意識が見える。
2013年のグッゲンハイム美術館「GUTAI」展を端緒とした具体再評価の流れがありますが、その実態がどういうものなのかを理解することも大切ですし、当たり前ですが、作品の構造をしっかり把握することも必要な作業だと思います。また例えば、堂本の妻であった毛利眞美の画業など、女性の芸術家への注目も欠かせません。
コレクションとしては、このコレクターの方はおそらくこれらの作家と同世代のはずで、そうした同時代性の厚みが示されたように感じます。
3-5. アメリカ:メディウムとしての版画
南島:
ジャスパー・ジョーンズ《SAVARIN (ULAE 183)》は画像で見るよりも実物が良く感じた作品の一つでした。ジョーンズは、一見ポップアート的に既成イメージを使うように見えるけれど、蜜蝋を混ぜて筆跡を残すなど素材性・マチエールを共存させ、イメージと物質性のどちらかに落ちないまま宙吊りで揺れ続ける作家です。それがリトグラフでもちゃんと出ているし、しかもサイズが大きいので、展示の中で目に留まります。
加来:
美術館だと本画中心で、版画は入りにくい、という話も聞きますが、本画/版画の混在をどう見ますか?
南島:
美術館も版画は収蔵します。ただ、重要なのは、版画作家ではない場合は、版画というメディウムがその作家にとってどういう位置づけなのかという点です。
例えば、彫刻家は彫刻の延長線上で版画をやっているタイプの方がいます。立体を作る感覚でやっていることがあるので、単に販売用として作っているわけではない。
ジョーンズの場合、メディウムを変えてもやりたいこと、つまり問題意識は変わらないのだと思います。絵画でこう表れ、版画ではこう表れる、「別バージョン(バリエーション)」として捉えると、版画がむしろ作家性を説明する材料にもなります。

3-6.ミニマリズム/プロジェクト:平面化された作品性
南島:
次にミニマリズムやクリストのような平面が専門ではない作家による平面作品。ここは意外に面白かったです。
例えば桑山忠明の《4 Red Squares (TK1425-65)》は、スタティックな物質性を目指しているのに、このサイズになると逆に歪みや手の痕跡が見え、人間らしさが出てしまう感じがある。いわゆる絵画の時代の後の作品たちで、ほかにもミニマリズム的なものをどういうふうに脱色するかみたいなことに取り組んだ作品もありますが、ポストミニマリズム以降の評価の難しさも改めて感じました。クリストはアートプロジェクトの資料とも捉えられますが、しっかり作品としてのクオリティがある。販売してプロジェクト資金にしていた面もあると思うけれど、単なる説明資料で終わっていません。
4. 来歴とネットワーク:作品が“関係”を連れてくる
加来:
通常のオークションは、多数の出品者から作品が集まるためラインナップに偶然性がある。一方シングルオーナーコレクションは、一人のコレクターの審美眼によるキュレーションが作用し、物語性が立ち上がるように思います。
市場的な魅力としては、来歴が明確である点が大きいです。誰の手を経てきたかは真贋・コンディションに直結し、長年一人の手元にあって世に出ていない「初い(うぶい)」作品は価値が高く評価されます。
また、来歴は直近だけでなくその変遷も注目どころ。例えば、ジェームズ・ローゼンクイスト《Untitled》は、同時代の作家、アンディ・ウォーホルが所有していたという点で特異です。あえてウォーホル作品(《Seated Cat》、《Flowers in Vase》)と並べ、来歴が示す関係を展示で示唆しています。
あと、作家同士の接点も面白いですね。例えば、吉原治良は藤田からのアドバイスにより自分なりの表現を突き詰めて具体に至ったように、作品単体の価値だけでなく関係のネットワークが立ち上がる面白さがある。
南島:
今回出品されているものはすべてコレクターの方が購入されたものなんですか?譲り受けたとかもあるのかなと。
加来:
基本的にはすべて購入されています。どこで購入されたかが分かるものについてはカタログに記載しています。
5. コレクションすること
加来:
コレクションは、集めた方自身の鏡だと思っています。まずは「好き/嫌い」などを手がかりに、自分の嗜好を掘り下げていく入口を作ってみる。オークションは二次市場のため、百貨店的に多様な作品が集まり、ひろく好きなものを探せます。そこで好きな作家が見つかったら、その作家の作品を取り扱っているギャラリーで深く知っていく、というのも良いかもしれません。
一点買うと点となり、次第に点が増えるほど見え方が変わり、時間の経過や生活の中で作品が相棒になっていきます。「私はこういうことを考えてこの年代を過ごしてきたんだな」と振り返ることができるかもしれません。
南島:
美術館時代、調査の一環で収蔵データベースに大正時代の文学者・佐藤春夫の名前を入れたら木村伊兵衛による肖像写真が出てきた。美術館が佐藤春夫を意識的に集めたわけではなく、おそらく木村伊兵衛関連の収蔵として受け入れた中に偶然眠っていたのでしょう。そういうものが後から来た人に掘り当てられて、新しいアイデアが生まれる。収蔵庫は、こうして蠢く「海」のようで、他人が様々な角度から取り上げた連関が無限に立ち上がってきます。美術館に入ってはじめて感じたのは、そういう可能性と恐ろしさが同居している収蔵庫の不思議な存在感でした。集めた側も、未来の読み替えまでは予測することはできません。そこに面白さがあると思います。
加来:
コレクションって、1回始めたら止まらなくなることもありますし、逆に1点でも手放したらもう興味がなくなってしまうというお客様もこれまでに見てきました。コンプ欲と、そのコンプが崩れた瞬間に突然興味を失うことの面白さみたいなのは、今までシングルオーナーコレクションセールを取り扱いさせていただいたときに感じた奇妙さですね。

6. 質疑応答
Q:ビュッフェやルオーで「日本っぽい」という話がありましたが、日本/海外で好まれる作家や傾向はあるのでしょうか?
A:
南島:
私が話したのは、単純にビュッフェやアントニ・クラーベが日本の60年代前後に流行ったという意味でした。「日本人的な」という意味では、実存主義的なムード、また日常的な感覚で親しみやすい風景や静物画は、日本の絵を習っている人や絵を知り始めた人たちにとっては多分手に取りやすく、共感もしやすい作品なのではないかと思います。
加来:
マーケット観点では、例えば草間彌生を取り上げると、欧米はインフィニティネット、アジアはかぼちゃが人気。前者は美術史的な文脈におけるその革命性や後世への影響を評価していて、後者はぱっと見のアイコン性があるものが好まれるなど、地域差が出ますね。
あと、日本の戦後作家は欧米からの入札も強い例があり、欧米の美術史的物差しで評価される作品は海外勢が入りやすいというように思います。
Q:もし南島さんが、この中にある作品から(諸々の事情抜きに)1点選ぶならどれですか?
A:
南島:
自分の趣味ですね。ジャスパー・ジョーンズの版画はいいのですが、ちょっとサイズが大きい。難波田の《三月の建物》は良かったと思います。さきほども触れたように、色々な要素が含まれている作品でした。今回の展示の位置的にも目に留まりやすい感じがします。
加来:
その意味で言うと展示の場所は重要ですね。
あと、先ほどのご質問にも通ずるかもしれませんが、特に日本のお客様に関しては小さめの作品を好まれる傾向というのはやはりあります。欧米のお客様はお家がそもそも広いですから、大きな作品を躊躇なく買える空間を持っているし、大きさ、壮大さやインパクトみたいなところに価値を置いているところもあります。
Q:今回の展示もこの方のコレクションの一部でしかないのだと思うのですが、この展示から、未出の作品を想像できたりしますか?
A:
南島:
時代順で見ると、確かにいくつか欠けはあるんですね。50年代に妙に具象が多い印象があるなとか、キュビスムや抽象絵画、あるいはミニマリズム周辺はここにないものがもう少しあるのかもしれない。
加来:
そうですね。ちなみに、5月に同じ方のコレクションのセールがございます。実はそちらでは日本美術がメインになっていて、点数的にはかなり多くお持ちです。よろしければまたその時にご覧をいただいたら、このコレクションの多様性も見ていただけるかと思います。
南島:
それと、コレクションを今手元にある作品の中でだけ考えようとすると、限界があるかもしれません。美術館での収集も、既存コレクションをより豊かに見せるために何を足すかというのが基本的な発想としてあります。つまりゼロベースで始まるのではないということです。
あと、自分のコレクションの外にひとつ作品を置いてみることで、いまある総体の見え方が変わることもあると思います。例えばここにモランディがあったら・フォンタネージがあったら、この展示はこういう風に見える、という話です。
皆さんがもしコレクターだとしたら、自分のものとそれ以外とが互いに響き合うことで見えてくるみたいなのが、コレクションの面白いところかもしれないですね。
Q:長期的に「残る」作家/作品の条件はあるのでしょうか?
A:
南島:
表層ではなく、作品や言説のなかにある一貫した構造(OS)があることではないでしょうか。妙な言い方になりますが、面白い作家は「30年前と言ってること同じだな」ということがあると思うんですよ。これは時代に遅れてるんじゃなくて、時代が動いてるのに変わらないし、なぜかそれで説明できてしまうという点に驚くべきなんだと思っています。勿論その時に出す例は変わる。今だったらAIの例を言うでしょうね。だけど言ってる内容をロジックだけ取ってくると同じという。
メディウムが変わってもその中核が存在していれば、いつか誰かがそれを解読できると思います。
加来:
マーケットの視点としては、より生々しい観点として、国内外の同時代的な作家、研究者、美術館、ギャラリー、批評家等のステークホルダーの多さ=ネットワークの厚みと、そしてそのネットワークがどこに繋がっているかが、残りやすさに影響すると考えています。
グッゲンハイム美術館のGUTAI展の話もありましたが、展示による再評価の後、市場がどうなったかというと、白髪作品とかのもう争奪戦になるわけですよね。美術界のステークホルダーがその作家やその運動に着目しておこうという動きがあったが故の結果なので、アートワールドのどこに属すか、そしてタッチポイントが多ければ多いほど、残りやすいとは感じています。
南島:
この問いへの答え方の違いが、正にこのダイアローグの意味な気がしてきました。すごい良い違いでしたね。
確かに、人的なネットワークもすごく大事だと思います。作品を見続けてケアし続ける人がいるかどうかは、物理的な保存の意味でも重要だと思います。
そして、いまここにいる我々も、その中のどこかにも関わっているわけであって、ある種の責任感みたいなものも大事だろうなみたいなことは、コレクションするしないは関係なく、そう思いました。

【開催概要】
対談イベント「市場の目線/批評の視点——Modern Legacyセールをめぐる対話」
日時:2026年1月29日(木)18:00-19:30
会場:代官山ヒルサイドフォーラム
登壇者:南島興氏(批評家)、加来水緒(SBIアートオークション 営業企画部次長)
【登壇者プロフィール】
南島興(みなみしま・こう)
批評家。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)、博士課程後期中退(美学)、横浜美術館学芸員を経て、現在はフリーで執筆・レクチャー、またアートライティング講座やYoutubeチャンネル「美術どうでしょう」の企画など。全国の常設展・コレクション展をレビューするプロジェクト「これぽーと」主宰。共同通信「見聞録」連載中。
加来水緒(かく・みお)
SBIアートオークション株式会社 営業企画部次長 兼 オークショニア。慶應義塾大学大学院 美学美術史学修了。2008年に国内アートオークション会社に入社、東京、香港、シンガポールにおいてアートオークションの企画・運営を行う。2021年より現職。2019年より青山学院大学総合文化政策学部にて「マーケットから見た美術史」の授業を担当。
1. 第一印象:個人コレクションの手触り
加来:
美術館で収集の担当もなさっていた南島さんから見て、本先行下見会はいかがでしょうか。
南島(敬称略、以下同じ):
美術館のように明確な方針に基づいた収集というより、その時々の関係性や注目、美意識が積み重なって、時代の厚みが刻まれている印象です。またリトグラフやドローイングのような小ぶりな作品など、美術館収蔵品とは異なる「個人が長年愛好してきた手触り」を感じる作品が複数ありました。
時代としては中心は50-60年代にありつつ、その周縁への広がりもあるコレクションですね。
2. 下見会という展示:価値のヒエラルキーと「分散」の前提
南島:
展示空間の中心には、価格帯でも最上位に位置する藤田嗣治《エレーヌ・フランクの肖像》が据えられています。こうした価格による価値のヒエラルキーが明確であるところが、美術館展示とは大きく違います。
加来:
下見会は入札検討者が実物を見て判断する場で、ゴールは購入・所有です。高いものが良いとは限りませんが、仕組み上「高額作品をどう見せ、どう買っていただくか」は重要な前提です。
見せ方としては、コンディションが見分できるクリアさを重視し、同一作家や同時代・関連ムーブメントは近くに配置しています。会場の自然光も活かし、家に飾った時のイメージができる空間を意識して展示しています。
南島:
一般的に美術館は網羅性(時代の連続性)を重視し、どこか欠落があると一点の「お宝開陳」展示にもなりやすい。一方オークションは競りを通じて作品が分散することが決まっていて、総体を永続的に保持する前提ではないところが、展示構成上の観点として根本的に違うようですね。
そして目の前の総体は、まさに今この瞬間だけ存在している。その一回性が特殊で、コレクターの活動というおぼろげなものを、いま限定で論じられること自体が特殊な体験だと感じます。つまり、いま私たちはなくなるものについて語っているわけです。

3. 作品群の読み:時代ごとの論点
3-1. 19世紀末から20世紀初頭:周縁性/遅れの創造性
南島:
このメイン展示室を見てまず思うのは、エドワルド・ムンク、藤田嗣治、ジョルジョ・デ・キリコ、エゴン・シーレ、タマラ・ド・レンピッカ……どこか周縁的な要素を感じさせる作家が並んでいるということです。
ムンクはノルウェー、シーレはウィーン、藤田はエコール・ド・パリの中でマイノリティとして評価されてきた。デ・キリコはギリシャ生まれでイタリアの作家でもあるけれど、どこの流派にも属さず、形而上絵画という独自の作風で生き続けた。
もう一点、ここは生年で見るとさらに面白くて。
例えば《アヴィニョンの娘たち》(1907年)をピカソが25~26歳で描いたとき、デ・キリコは19歳、シーレは17歳の頃です。つまり彼らは、高校生くらいの時に10歳上の先輩たちがキュビスムを始めた。また未来派は1909年のマリネッティによる「未来派宣言」に始まります。こうした大きな動きを見て、下の世代は「自分はどうする?」と考えなかったはずがないです。
そこでの選択肢は大きく三つ。一つは亜流になっていく。キュビスムならキュビスム風の絵画や写実的な画法との折衷として生きていく道もある。一つは古典回帰。これは前衛を否定するという立場ですね。そして、もう一つは第3の道として孤独に自分の作風を確立する道です。私の感覚では、デ・キリコはまさにその路線で、前衛とは別の方向へと独自の作風を立ち上げていくんです。これを「じゃあ今だったら?」とか「1960年を基準にしたら「遅れた」人は何をした?」みたいに考えるのも面白い。
加来:
「周縁性・遅れ」という観点では、極東・日本のコレクションであること自体も、欧米中心の物差しに照らせば通じるところがありますね。
南島:
今回のデ・キリコ《偉大な形而上学者》は、MoMA所蔵の同名油彩(1917年)を立体化したものに見える。そういう反復を見ると、デ・キリコは、形而上絵画が評価されたことで「これじゃないといけない」と縛られていったではと感じます。マーケットとの関係のなかで苦闘した人生だったのかな、と。
私は大学時代ジョルジョ・モランディを研究していたんですが、デ・キリコ、カルロ・カッラ、モランディの3人は、形而上絵画を1910年代に取り組んだ後に、全く別の道に向かいます。デ・キリコはその後も同じ作風を続けた。カッラは古典回帰。モランディは静物画へ進んだとされます。だから「前衛から遅れた世代」のパターンとして、デ・キリコ型/カッラ型/モランディ型みたいな見方ができる。作家がどう変遷したのか、批評としても研究としても面白い。

3-2. 戦後直後:実存のムードと別の可能性
南島:
ジョルジョ・ルオーやベルナール・ビュッフェには、日本の1950-60年代における実存主義的なムードと通じるものがあり、すごく時代の影を感じますね。
加来:
両作家は国内にもコレクターが多く、オークションにも比較的出ます。今回の方もお好きだったようで、コレクションに複数点入っています。
南島:
そう、だから余計に「日本の方のコレクションだな」という感じがする。
作品で言うと、ビュッフェ《Rue de village》が1946年作というのが興味深い。戦後直後で物資もないし、作品が消失しているケースもあるし、そもそも絵を描くことが自体が難しい時代。この時期の作品は相対的に少なく、46年作が残っていること自体に希少性があると思います。
しかも本展示では、隣に1953年の静物画(《Nature morte aux bouteilles》)が並んでいて、そこでは黒い輪郭線で、いわゆるビュッフェの作風に至っている。つまり46年作は、その一歩手前で、まだ作風が固定化しきっていない。デ・キリコの画業とも重なるかもしれませんが、私には、本作に「ビュッフェになる前のビュッフェ」の可能性が見えます。
作家が誰かになっていく、作家って何なのか、コレクターやマーケットとの関係は何なのか……そういうことに思いを馳せる入口になる作品だと思います。
加来:
ビュッフェにも、デ・キリコみたいに悩みがあったのかもしれないですね。
南島:
ルオーも制作年が1940-48年で、戦争の色を強く残しています。それから面白いのが、ビュッフェもルオーも、どちらも画面の真ん中に「道」があることです。一つは何もない道、一つはキリストがいる道。どちらにも戦後直後の祈りや実存的不安が反映されていて、この2点の取り合わせは興味深いなと思いました。

3-3. 抽象/具象:二分法をほどく
南島:
50-60年代はアンフォルメルや抽象表現主義の動きを筆頭に抽象の時代とされますが、表面的な抽象/具象という区分はあまり重要ではありません。抽象的に思える作品にも具象的なモチーフは入り込むし、色のトーンの調整や構成によっては具象的に見える作品も、抽象的に感じる。難波田龍起の《三月の建物》は、右上の緑の丸みたいな形が、形而上絵画に出てきそうなモチーフに見えたりして、美術史上の具体的な作品への参照がいくつか混ざり合っている感じがします。構成主義的な意味での抽象よりむしろ手仕事的な要素もありますね。そういう様々な形式やモチーフが混在する時代として見た方が、コレクションの厚みも理解できると思います。
加来:
ムンクや藤田も集めつつ、こういう戦後抽象も拾っている。多様性が魅力でありつつ、きちんと時代ごとの要所を押さえている感じが面白いですよね。
南島:
はい。ここで重要なのは「抽象か具象か」で割り切らず、例えば山田正亮なら静物画からworkシリーズへみたいに、連続性(バリエーション)として捉えることだと思います。
3-4. 具体以後:構造を変える試みと再評価
南島:
このコレクションの中心の一つは、具体美術に関係した作家たちの「その後」だと思います。具体そのものというより、海外で直に触れて帰ってきたりして、そこから絵画の構造そのものをどう変えるかに実直に向き合っている作品がある。堂本尚郎《連続の溶解 No.19》は、1964年のベネチア・ビエンナーレでの受賞からおそらく2年後の作品ですが、地塗りの赤に黒を重ねて、図と地の関係の意識的な更新をはかろうとする問題意識が見える。
2013年のグッゲンハイム美術館「GUTAI」展を端緒とした具体再評価の流れがありますが、その実態がどういうものなのかを理解することも大切ですし、当たり前ですが、作品の構造をしっかり把握することも必要な作業だと思います。また例えば、堂本の妻であった毛利眞美の画業など、女性の芸術家への注目も欠かせません。
コレクションとしては、このコレクターの方はおそらくこれらの作家と同世代のはずで、そうした同時代性の厚みが示されたように感じます。
3-5. アメリカ:メディウムとしての版画
南島:
ジャスパー・ジョーンズ《SAVARIN (ULAE 183)》は画像で見るよりも実物が良く感じた作品の一つでした。ジョーンズは、一見ポップアート的に既成イメージを使うように見えるけれど、蜜蝋を混ぜて筆跡を残すなど素材性・マチエールを共存させ、イメージと物質性のどちらかに落ちないまま宙吊りで揺れ続ける作家です。それがリトグラフでもちゃんと出ているし、しかもサイズが大きいので、展示の中で目に留まります。
加来:
美術館だと本画中心で、版画は入りにくい、という話も聞きますが、本画/版画の混在をどう見ますか?
南島:
美術館も版画は収蔵します。ただ、重要なのは、版画作家ではない場合は、版画というメディウムがその作家にとってどういう位置づけなのかという点です。
例えば、彫刻家は彫刻の延長線上で版画をやっているタイプの方がいます。立体を作る感覚でやっていることがあるので、単に販売用として作っているわけではない。
ジョーンズの場合、メディウムを変えてもやりたいこと、つまり問題意識は変わらないのだと思います。絵画でこう表れ、版画ではこう表れる、「別バージョン(バリエーション)」として捉えると、版画がむしろ作家性を説明する材料にもなります。

3-6.ミニマリズム/プロジェクト:平面化された作品性
南島:
次にミニマリズムやクリストのような平面が専門ではない作家による平面作品。ここは意外に面白かったです。
例えば桑山忠明の《4 Red Squares (TK1425-65)》は、スタティックな物質性を目指しているのに、このサイズになると逆に歪みや手の痕跡が見え、人間らしさが出てしまう感じがある。いわゆる絵画の時代の後の作品たちで、ほかにもミニマリズム的なものをどういうふうに脱色するかみたいなことに取り組んだ作品もありますが、ポストミニマリズム以降の評価の難しさも改めて感じました。クリストはアートプロジェクトの資料とも捉えられますが、しっかり作品としてのクオリティがある。販売してプロジェクト資金にしていた面もあると思うけれど、単なる説明資料で終わっていません。
4. 来歴とネットワーク:作品が“関係”を連れてくる
加来:
通常のオークションは、多数の出品者から作品が集まるためラインナップに偶然性がある。一方シングルオーナーコレクションは、一人のコレクターの審美眼によるキュレーションが作用し、物語性が立ち上がるように思います。
市場的な魅力としては、来歴が明確である点が大きいです。誰の手を経てきたかは真贋・コンディションに直結し、長年一人の手元にあって世に出ていない「初い(うぶい)」作品は価値が高く評価されます。
また、来歴は直近だけでなくその変遷も注目どころ。例えば、ジェームズ・ローゼンクイスト《Untitled》は、同時代の作家、アンディ・ウォーホルが所有していたという点で特異です。あえてウォーホル作品(《Seated Cat》、《Flowers in Vase》)と並べ、来歴が示す関係を展示で示唆しています。
あと、作家同士の接点も面白いですね。例えば、吉原治良は藤田からのアドバイスにより自分なりの表現を突き詰めて具体に至ったように、作品単体の価値だけでなく関係のネットワークが立ち上がる面白さがある。
南島:
今回出品されているものはすべてコレクターの方が購入されたものなんですか?譲り受けたとかもあるのかなと。
加来:
基本的にはすべて購入されています。どこで購入されたかが分かるものについてはカタログに記載しています。
5. コレクションすること
加来:
コレクションは、集めた方自身の鏡だと思っています。まずは「好き/嫌い」などを手がかりに、自分の嗜好を掘り下げていく入口を作ってみる。オークションは二次市場のため、百貨店的に多様な作品が集まり、ひろく好きなものを探せます。そこで好きな作家が見つかったら、その作家の作品を取り扱っているギャラリーで深く知っていく、というのも良いかもしれません。
一点買うと点となり、次第に点が増えるほど見え方が変わり、時間の経過や生活の中で作品が相棒になっていきます。「私はこういうことを考えてこの年代を過ごしてきたんだな」と振り返ることができるかもしれません。
南島:
美術館時代、調査の一環で収蔵データベースに大正時代の文学者・佐藤春夫の名前を入れたら木村伊兵衛による肖像写真が出てきた。美術館が佐藤春夫を意識的に集めたわけではなく、おそらく木村伊兵衛関連の収蔵として受け入れた中に偶然眠っていたのでしょう。そういうものが後から来た人に掘り当てられて、新しいアイデアが生まれる。収蔵庫は、こうして蠢く「海」のようで、他人が様々な角度から取り上げた連関が無限に立ち上がってきます。美術館に入ってはじめて感じたのは、そういう可能性と恐ろしさが同居している収蔵庫の不思議な存在感でした。集めた側も、未来の読み替えまでは予測することはできません。そこに面白さがあると思います。
加来:
コレクションって、1回始めたら止まらなくなることもありますし、逆に1点でも手放したらもう興味がなくなってしまうというお客様もこれまでに見てきました。コンプ欲と、そのコンプが崩れた瞬間に突然興味を失うことの面白さみたいなのは、今までシングルオーナーコレクションセールを取り扱いさせていただいたときに感じた奇妙さですね。

6. 質疑応答
Q:ビュッフェやルオーで「日本っぽい」という話がありましたが、日本/海外で好まれる作家や傾向はあるのでしょうか?
A:
南島:
私が話したのは、単純にビュッフェやアントニ・クラーベが日本の60年代前後に流行ったという意味でした。「日本人的な」という意味では、実存主義的なムード、また日常的な感覚で親しみやすい風景や静物画は、日本の絵を習っている人や絵を知り始めた人たちにとっては多分手に取りやすく、共感もしやすい作品なのではないかと思います。
加来:
マーケット観点では、例えば草間彌生を取り上げると、欧米はインフィニティネット、アジアはかぼちゃが人気。前者は美術史的な文脈におけるその革命性や後世への影響を評価していて、後者はぱっと見のアイコン性があるものが好まれるなど、地域差が出ますね。
あと、日本の戦後作家は欧米からの入札も強い例があり、欧米の美術史的物差しで評価される作品は海外勢が入りやすいというように思います。
Q:もし南島さんが、この中にある作品から(諸々の事情抜きに)1点選ぶならどれですか?
A:
南島:
自分の趣味ですね。ジャスパー・ジョーンズの版画はいいのですが、ちょっとサイズが大きい。難波田の《三月の建物》は良かったと思います。さきほども触れたように、色々な要素が含まれている作品でした。今回の展示の位置的にも目に留まりやすい感じがします。
加来:
その意味で言うと展示の場所は重要ですね。
あと、先ほどのご質問にも通ずるかもしれませんが、特に日本のお客様に関しては小さめの作品を好まれる傾向というのはやはりあります。欧米のお客様はお家がそもそも広いですから、大きな作品を躊躇なく買える空間を持っているし、大きさ、壮大さやインパクトみたいなところに価値を置いているところもあります。
Q:今回の展示もこの方のコレクションの一部でしかないのだと思うのですが、この展示から、未出の作品を想像できたりしますか?
A:
南島:
時代順で見ると、確かにいくつか欠けはあるんですね。50年代に妙に具象が多い印象があるなとか、キュビスムや抽象絵画、あるいはミニマリズム周辺はここにないものがもう少しあるのかもしれない。
加来:
そうですね。ちなみに、5月に同じ方のコレクションのセールがございます。実はそちらでは日本美術がメインになっていて、点数的にはかなり多くお持ちです。よろしければまたその時にご覧をいただいたら、このコレクションの多様性も見ていただけるかと思います。
南島:
それと、コレクションを今手元にある作品の中でだけ考えようとすると、限界があるかもしれません。美術館での収集も、既存コレクションをより豊かに見せるために何を足すかというのが基本的な発想としてあります。つまりゼロベースで始まるのではないということです。
あと、自分のコレクションの外にひとつ作品を置いてみることで、いまある総体の見え方が変わることもあると思います。例えばここにモランディがあったら・フォンタネージがあったら、この展示はこういう風に見える、という話です。
皆さんがもしコレクターだとしたら、自分のものとそれ以外とが互いに響き合うことで見えてくるみたいなのが、コレクションの面白いところかもしれないですね。
Q:長期的に「残る」作家/作品の条件はあるのでしょうか?
A:
南島:
表層ではなく、作品や言説のなかにある一貫した構造(OS)があることではないでしょうか。妙な言い方になりますが、面白い作家は「30年前と言ってること同じだな」ということがあると思うんですよ。これは時代に遅れてるんじゃなくて、時代が動いてるのに変わらないし、なぜかそれで説明できてしまうという点に驚くべきなんだと思っています。勿論その時に出す例は変わる。今だったらAIの例を言うでしょうね。だけど言ってる内容をロジックだけ取ってくると同じという。
メディウムが変わってもその中核が存在していれば、いつか誰かがそれを解読できると思います。
加来:
マーケットの視点としては、より生々しい観点として、国内外の同時代的な作家、研究者、美術館、ギャラリー、批評家等のステークホルダーの多さ=ネットワークの厚みと、そしてそのネットワークがどこに繋がっているかが、残りやすさに影響すると考えています。
グッゲンハイム美術館のGUTAI展の話もありましたが、展示による再評価の後、市場がどうなったかというと、白髪作品とかのもう争奪戦になるわけですよね。美術界のステークホルダーがその作家やその運動に着目しておこうという動きがあったが故の結果なので、アートワールドのどこに属すか、そしてタッチポイントが多ければ多いほど、残りやすいとは感じています。
南島:
この問いへの答え方の違いが、正にこのダイアローグの意味な気がしてきました。すごい良い違いでしたね。
確かに、人的なネットワークもすごく大事だと思います。作品を見続けてケアし続ける人がいるかどうかは、物理的な保存の意味でも重要だと思います。
そして、いまここにいる我々も、その中のどこかにも関わっているわけであって、ある種の責任感みたいなものも大事だろうなみたいなことは、コレクションするしないは関係なく、そう思いました。