NEWSニュース

NEWS - 2026.05.01

テキスト記録「知っておきたいフジタの話 足あと・筆あと・そして人々」

国内の重要なシングルオーナーコレクションに焦点を当てた「Modern Legacy: An Important Japanese Collection of 20th & 21st Century Masters」セールの開催にあわせ、東京ステーションギャラリー学芸員・若山満大氏を迎え、同セールのメインロットである藤田嗣治に関するトークイベントを実施しました。

本イベントでは、今日私たちが知る「おかっぱ頭・丸メガネ・猫・乳白色の下地・魅力的な女性像」という作家イメージがいかに形作られたのかを、作品だけでなく、その足取りや交友関係も含めて通史的にたどりました。
本稿は、承認への渇望と挫折も含めた非常に人間らしい藤田の姿に迫ることで、そこから生み出された作品や同時代の創作全体に対する新たな視点のヒントを提示した講演の内容をまとめたものです。

【開催概要】
トークイベント「知っておきたいフジタの話 足あと・筆あと・そして人々」
日時:2026年3月14日(土)11:00-12:00(受付開始:10:30-)
会場:東京国際フォーラム ホールD5(〒100-0005 東京都千代田区丸の内3-5-1)
登壇者:若山満大氏(東京ステーションギャラリー 学芸員)

【登壇者プロフィール】
若山満大(わかやま・みつひろ)
東京ステーションギャラリー学芸員。主な関心領域は、日本近現代美術史および写真史。愛知県美術館学芸員、あいちトリエンナーレ2016キュレトリアルチーム、アーツ前橋学芸員などを経て現職。2025年夏には、写真をキーワードに藤田嗣治の生涯を読み解く展覧会「藤田嗣治 絵画と写真」を企画し、フジタ研究に新たな視点を提示した。そのほか、「大西茂」(2026)、「安井仲治」(2023–2024)、「甲斐荘楠音」(2022)など、独自の表現を切り拓いた異才たちの個展を多数手がけている。共編著に『Photography? End?──7つのヴィジョンと7つの写真的経験』(magic hour edition、2022)。

トークイベントの様子

I. 本編
1. 初期キャリア:東京美術学校〜渡仏まで(1886–1913)
藤田は1886年生まれ。幼少期から絵を好み、父は陸軍軍医の藤田嗣明(ふじた・つぐあきら)で、比較的裕福な環境で育ちます。
その後、当時の東京美術学校(現・東京藝術大学)に入り、黒田清輝の教室で学びます。黒田は国費留学経験を持ち、パリで印象派を学んだ影響力の大きい画家でした。
しかしながら藤田は、卒業制作の自画像(この頃はまだおかっぱでも丸眼鏡でもありません)で黒を強く用いるなど、明るい色調を使った黒田の教育方針に「逆張り」するような姿勢を見せます。藤田は日本の権威に認められようという気はさらさら無く、早くからフランス行きを志していました。

2. 渡仏とパリでの模索:流行への接近と「会心の作」(1913–1917)
最初の転機となったのは1913年。藤田は当時の妻・鴇田登美子(ときた・とみ)とともに、父が赴任していた京城(現ソウル)を訪れ留学の相談をした後、船でマルセイユへ向けて出港します。渡仏航海中に撮影された、まだ垢抜けない藤田が「植民地帽」と呼ばれるヘルメットを被って写っている写真が残っています。
当時のヨーロッパは、20世紀初頭の芸術潮流であるキュビスム、フォーヴィスムなどが席巻していました。藤田も当初は強い影響を受け、キュビスム風の作品を描いています(例として、《キュビスム風静物》(1914年、ポーラ美術館蔵))。
そんな彼が「独自の画面を手に入れた」と喜び語った最初の例として、ポーラ美術館所蔵の《巴里城門》(1914年)が挙げられます。画布の裏には「自分がパリに着いてからできた最初の会心作だ」という趣旨のコメントが書かれており、キュビスムや印象派の模倣ではなく、藤田らしさが芽生えた作品といえます。

3. 周縁性と自己演出の萌芽:城壁の内と外(1910年代)
当時のパリは戦乱期の名残を残す城壁に囲まれた都市で、藤田が画業の初期に足しげく通ったのは城壁の内と外の境界にあたる地域でした。藤田は街はずれの門付近など、中心から外れた風景を描いています。
ここには階級制の色濃い社会の中で周縁へ押し出された人々も多く、藤田自身もまた「中心」から距離のある存在でした。シンパシーを感じたからなのか理由は定かではないですが、藤田はそういったものにひたむきに目を向けていました。

4. 「古代ギリシャ生活」への傾倒:イサドラ&レイモンド・ダンカンの影響(1914頃)
藤田の初期キャリアを語るうえで重要なのが、その奇抜な生活です。スカートを履いて機織りをする藤田のセルフポートレート(《自写像》1914年、秋田県立美術館蔵)が残っていますが、藤田は「西洋芸術の根本を知りたい」と考え、古代ギリシャの生活の再現を試みます。
その背景には、モダンダンスの開拓者として知られるアメリカの舞踊家、イサドラ・ダンカンとレイモンド・ダンカンらが提唱した「ギリシャ・ダンス(ギリシャ時代の彫刻に見られる身体作法を元にしたダンス)」の思想がありました。
藤田は画家の川島理一郎とともに、パリから遠く離れたドルドーニュ地方へ移住し、マルザック城とレイニャック城という古城の管理を引き受ける代わりに住み込みで生活しつつ、自給自足の暮らしを送りながら制作を続けます。
ドルドーニュ県はラスコー洞窟など先史時代の遺跡を擁する土地です。西洋文明の根に触れるという意味では、理に適った土地だといえるでしょう。

5. 浮世絵からの発想とブレイク:水彩の成功(1917)
貧しかった藤田は油彩を量産できず、水彩で制作を重ねます。1917年頃の作品には仏画を思わせる気配や、印象的な手の描写が見られます(例として、個人蔵の《風景の中のヴェールの女》(1917年)や《夢想の鳩》(1917年))。
これらについて藤田は、喜多川歌麿や鈴木春信など浮世絵から強い刺激を受けたと語っており、女性像のクローズアップ、細い線描、長くしなやかな手といった日本的造形を武器にしていったのです。
結果、藤田はシェロン画廊で水彩100点以上を完売する成功を収めます。個展はエコール・ド・パリの画家たちも訪れ、ピカソが3時間近く作品を見ていたため、藤田と画廊主のシェロンとも、「ピカソもこれだけ穴が開くほど絵を見ているんだから」と成功を確信したという逸話も伝わっています。

6. エコール・ド・パリの只中で:差異化の必然
当時のパリは世界中の画家が集まる中心地で、成功には「他にないもの」が必要でした。藤田は日本的要素を、良くも悪くも露骨なほど戦略的に押し出します。
周囲には、まず既に売れていた作家として、藤田より10歳以上年齢が上のアンドレ・デュノワイエ・ド・スゴンザックやモーリス・ド・ヴラマンクといったフォーヴィスムの作家たちがいました。加えて、藤田とほぼ同世代の1880年代生まれの画家たちが20世紀初頭から頭角を現しており、その筆頭としてパブロ・ピカソやマルク・シャガールといった異国からやってきた画家で、自分たちの画風を完全に確立している画家たちもいた。それに遅れること、リトアニアから来たシャイム・スーティンやイタリアから来たアメデオ・モディリアーニといった、藤田と一緒に貧乏暮らしをしながら切磋琢磨した画家たちがいて、またパリ出身の女性画家マリー・ローランサン、ポーランドから来たモイズ・キスリング、現ベラルーシ出身のオシップ・ザツキン、ブルガリアから来たジュール・パスキンもいます。こうした非常に個性的な画家たちがひしめく中に食い込んでいくには徹底した工夫が不可欠であり、ある種の商業主義的な精神が必要だったわけです。

トークイベントの様子
トークイベントの様子

7. 評価の確立:1920年代と「乳白色の下地」
藤田の評価が確立するのは1920年代です。
その代表例が、1921年のサロン・ドートンヌに出品された、ポンピドゥー・センター蔵《私の部屋 目覚まし時計のある静物》 、ベルギー王立美術館蔵《自画像》、そしてプチ・パレ蔵《裸婦》から成る一連の出品作です。
この時評価されたのが、藤田独自の乳白色の下地でした。
フォーヴの画家たちが絵具を厚く盛り、鮮やかな色彩を競うのに対し、藤田は白黒基調・平滑な画面へ振り切ります。そこに極細線描を活かし、日本的なもの、つまり自身が浮世絵に感じていた女性のきめ細やかな肌の質感を表現しようとしました。

8. セルフプロデュース:東でも西でもない「藤田像」
藤田はこうして、他人には真似のできない技法を引っ提げてパリでの地位を築いていくわけですが、社会的な成功を手にするには良い作品に加えて、社交界で名が通ることも重要でした。藤田は「東洋人であること」を差別化のアドバンテージとして使い、巧みなセルフプロデュースで一躍パリの寵児になりました。
東京国立近代美術館蔵《自画像》(1929年)には、金の額縁で額装された女性の肖像画といった伝統的洋画家を思わせる室内の要素を置きつつ、本人は硯に面相筆を持ち、おかっぱに丸眼鏡、ちょび髭をはやして金の丸いピアスを付けている。そうした奇抜な装いで「東の者とも西の者ともつかないない存在」として自己を演出します。
その演出を加速させたのが写真メディアです。ベレニス・アボット、アンドレ・ケルテスなど、多くの写真家に自身を撮らせ、時にはアトリエ内に日本風の茶屋を再現して撮影させるほどでした。
さらに藤田は服も自作します。貧乏時代にテーラーで働いた経験や自給自足生活のおかげで裁縫ができた藤田は、ミシンを自ら踏んで派手なシャツを作り、お裁縫もできる画家という面白いイメージそれ自体を物語にします。こうして藤田は、いわば「歌って踊れる画家」というキャラクターとして、存在感を確立します。

9. 環太平洋の旅:写真=イメージアーカイヴ(1930年代)
藤田はそんな栄光の時代を経て、3番目の妻のユキとの関係悪化や税金の納付漏れなどの諸事情もあり、逃げるように中南米へ旅に出ます。当時アルゼンチンは南米のパリと呼ばれたほど繁栄しており、そこに行けば仕事が沢山降ってくる。お金を稼ごうという算段で、出かけたわけです。
フランスを出発して、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、エクアドル、キューバ、メキシコ、カリフォルニアやロサンゼルス、サンフランシスコなどのアメリカ西海岸に滞在した後、太平洋を横断し日本、さらに中国、ベトナム、シンガポール等、延べ10年ほどの長期にわたり移動を重ねます。
藤田は「環太平洋地域の人種図鑑を作る」と宣言し、この旅で大量の写真を撮ります。写真は藤田にとってメモ書き、すなわち、自分の見てきたものを図書館や辞書のように、見たいときに引っ張り出せるイメージアーカイヴのように使っていました。
絵の資料として特に藤田が注目したのは人の相貌や服の模様などで、撮影したパーツはモンタージュされ、絵画制作へ転用されています。例として広島県立美術館蔵《婦人像(リオ)》(1932年)に南米の黒人女性や教会のイメージが活かされていたり、秋田では戸沢歌子さんという小学生の女の子をモチーフとして気に入り、写真に撮影して何度も絵に描いています。藤田が日本を見る眼は、ほぼ異邦人の視点で見ているという感じがします。同じく秋田では雪国の風物を200枚以上撮影し、民具も大量に購入、それらの資料は1937年の大作 《秋田の行事》(平野政吉美術財団蔵。横幅約3.65m)へと結実します。

10. 戦時下の順応と戦争画、そして戦後の糾弾
1938年、国民精神総動員運動など総力戦体制が進む中、藤田は和服・日本刀などを身につけてメディアに登場し、1941年頃には丸坊主姿も見せます。当時の周りの人から見れば洋行帰りがイキっているようにしか見えなかったと思うのですが、これも誰よりも日本人らしくあろうとした「社会への順応=セルフプロデュース」と言えます。
《猫》(1940年、東京国立美術館蔵)などに見られるように、20年代から猫を描き続けてきたことにより獲得した既存イメージの強化も怠りません。この作品は群像表現の延長で、人間の争いをメタファーとして表現していると解釈できます。
そして、藤田はやがて戦争画へ向かいます。代表作は《アッツ島玉砕》(1943年、東京国立近代美術館蔵(無期限貸与))です。実際これで国威発揚、戦意高揚したかは定かではないという見方もありますが、戦後、藤田はこうした戦争画の制作を激しく糾弾されます。
一方で藤田はGHQ嘱託として戦争画の収集にも関わり、1946年の戦犯リストに名がなかったことで公式には戦犯ではないとされます。しかし画壇からの批判は強く、藤田は日本を離れる決意を固めます。

11. 渡米・パリ復帰と再起(1949–1950)
藤田はGHQの民生官だったフランク・シャーマンの協力を得て、1949年に羽田から渡米。
「絵描きは絵だけ描いてください。日本画壇は早く世界水準になってください」という辛辣な言葉を残し、日本を後にします。
アメリカで個展を開いたのち、パリのポール・ペトリデス画廊で1950年に20点から成る個展を開催。これが再起戦となり成功します。中南米を経たカラフルなゴテゴテとした絵肌、あるいは戦中の重たく土臭い絵肌から、再び乳白色の下地が復活していきます。《占いの老女》(1949年、堀美術館蔵)の中で、占い師のおばあさんの後ろにいるカラスがハートのエースを咥えています。タロットでは、ハートのエースは再起・成功を意味するカードだそうで、そういったものを描きこみ、もう一度軌道に乗るようにという願いも込めてこの作品を制作したのだと思われます。

12. 晩年:カラー写真と宗教画、礼拝堂(1950年代–1968)
藤田は1950年代、ヨーロッパ各地でカラー写真を多数撮影します。木村伊兵衛が藤田のカラースライドに驚き、日本へ持ち帰って雑誌掲載したことで、カラー写真黎明期の写真家たちに影響を与えました。
写真家はそれまで白黒(モノクローム)の論理で画面を組み立ててきたため、急にやってきた色という大きな要素をどのように扱うべきか分からなかった。構図だけでなく色彩のバランスといった絵画の理論を写真へ持ち込む藤田の視点が、ここで図らずも作用したのです。
カラー写真は色も含めてすべてを記録してくれますから、藤田はそれを画面の構築に活かしています。例えば《庭園の子ども達》(1958年、聖徳大学蔵)は、テレビを見ている子供たちの写真を再構成することで素敵な宗教画風に仕上がっている事例です。
また、藤田は自身が撮影したカラースライドを映写機にかけて、人に見せたり自分で楽しんだりしていたそうです。
晩年、藤田は子どもや社会の下層に置かれた人々を多く描きます。精神分析的解釈として、「権威(強い父、パリ画壇、日本社会、あるいは国家そのもの)に認められたい欲求が挫折し、無垢な子ども像に自己を重ねた」という説もあり、示唆として興味深いです。
そして藤田は宗教画へ傾倒し、1959年に洗礼を受け、フランス国籍を取得します。
最晩年の大仕事が、ランス近郊の礼拝堂の建立と内部装飾です。礼拝堂は1966年に落成。藤田はその2年後、1968年にチューリッヒで癌により逝去します。
こうした藤田の歴史は、藤田自身が書き残した資料を基にして編まれているため、非常にドラマチックです。藤田自身も自分の言動が後世に残るということは意識していて、日記を清書したりしていたことが分かっています。

13. 《エレーヌ・フランクの肖像》
エレーヌ・フランクの肖像
今回のオークションには、《エレーヌ・フランクの肖像》という1924年の作品が出品されています。これは間違いなく藤田の代表的な作品の一つで、来歴も明らかです。最初はベルギーのアントワープで展示され、その後回顧展などにも何度か出ています。
こうしたいわゆるお金持ちの奥様の肖像画というのは複数あります。例えば《ロジータ・ド・ガネイ伯爵夫人の肖像》(1923年、個人蔵)は、《エレーヌ・フランクの肖像》に非常に似ています。乳白色の下地、真ん中に4分の3正面の女性像というオーソドックスなポートレートの描き方をしており、調度品も配置されています。少し生気の抜けたような人体表現も近い印象を受けます。
また、《エレーヌ・フランクの肖像》には木版の捺染によるジュイ布というフランスの生活でポピュラーな布が描かれています。藤田はこうしたディティールを描くのが好みで、ジュイ布も藤田が好んで用いたモチーフの一つです。

14. 技法解説:乳白色の下地
藤田の代名詞である「乳白色の下地」の技法の確立は、19年から21年頃であったとされています。
近年の調査で下地からは鉛白、炭酸カルシウム(貝殻を砕いたもの)、硫酸バリウム等複数の白色顔料が検出されています。乾性油などで下地を作ることで油性の支持層ができますが、水と油は弾きあうため、通常の水性の墨線は定着しにくい。
藤田はここで、タルク(滑石)を散布して表面性状を調整し、油性下地の上に水性の墨線が乗る状態を作り出しました。これにより、浮世絵・日本画に見られるような極細線描を油彩画面で可能にし、「西洋と東洋の融合」を技術として実現したのです。
二つの文化を越境した藤田が技術研究の末に到達した独自の境地が、この乳白色の下地だったということです。

15. 関連作家・人脈(オークション文脈)
3月セールの展示の様子

オークションには藤田と関わる作家の作品も多く出品されています。
直接交流のあった例としては、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックがいます。タマラ・ド・レンピッカ、ジョルジュ・デ・キリコは直接の交流があったかは不明ですが、彼らはシュルレアリストたちと非常に親しく交流したので、藤田にとっては友達の友達のような間柄だったかもしれません。
また、関係が深い人物としてアントワーヌ・ブールデル、マン・レイが挙げられます。マン・レイのアトリエ訪問の際、藤田は「素人のラジオ狂の家のようだ」といった印象を語り、そこでモダニズム写真の作り方を理解したと述べています。
また日本側では、二科系の文脈で関わる画家たち、斎藤義重、難波田龍起、吉原治良、山口長男が挙げられ、藤田が吉原に「人真似ではいけない」と助言した話は、後の具体美術協会のオリジナリティ重視にもつながったとされます。
さらに戦後にパリへ渡った次世代として、菅井汲、今井俊満、堂本尚郎なども、藤田の成功を知る世代として位置づけられます。

II. Q&A
Q1. 資金について
国をこれだけ移動する際、お金はどうやって調達・移動したのでしょうか。
A1.
資金面では、パリで稼いでおり、当時のフランは国際的に強い通貨でした。国際金融の仕組みも整っていたので、どこへ行っても資金面で大きく困ったとは考えにくいですね。

Q2. 女性遍歴について
藤田は女性関係が派手というイメージですが、その内容について教えてください。
A2.
藤田は妻が5人いたことで知られます。二番目の妻であるフェルナンド・バレエは藤田をシェロン画廊へ導いた存在とも言われますが、成功の直前に別れています。三番目の妻は「ユキ」と呼ばれたベルギー系フランス人のリュシー・パトゥで、藤田が「雪のように白い肌だから」と日本名を与え、以後その名で通したとされています。
その後、赤毛の踊り子マドレーヌ・ルクーとの南米旅行、マドレーヌの薬物過量摂取による死、そして五番目の妻、堀内君代との関係など、複雑な経緯があります。戦後に相続の問題が出た際、法的な婚姻関係の整理(ユキとの離婚と君代との再婚)を行ったとも伝わります。
ただ、奥さん以外の関係については私の把握が限定的で、確実に言える範囲はここまでです。

Q3. ヨーロッパでの評価について
藤田は1920年代に大成功した後も、ヨーロッパでピカソのようにずっと巨匠だったのでしょうか。あるいは近年フランスで見直されているのでしょうか。国際的ポジションがどう変化したのかについて教えてください。
A3.
藤田は20年代の段階でフランスの芸術勲章を得ており、国家から認められた画家でした。同世代の大作家が一線にいる間、藤田も並ぶ存在として評価されていました。
また戦後もパリ市立近代美術館へ寄贈するなど、存命中から作品がミュージアム・ピース化しています。戦後美術を紹介する展覧会でも、ピカソやマティスと同じ部屋に並ぶ形で出品された例があり、一定の評価は揺るがなかったと言えます。
私は2025年夏のフジタ展の準備のためにフランスの国立図書館へ行ったのですが、その際に受付のお姉さんが私の眼鏡を見て、「藤田と同じ丸眼鏡」と言ってきたくらい、近年もフランスで文化に触れている人なら藤田の名は通じる、という実感があります。

III. 付録:フジタ早わかり図 足あと・筆あと・そして人々
フジタ早わかり図
※トークイベントの講演内容を基に編集

なお、東京ステーションギャラリーでは、2026年6月21日(日)まで、「スイス絵画の異才 カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」展を開催中です。同展はその後、大阪中之島美術館にも巡回を予定しております。是非ご高覧ください。

HOME ニュース NEWS テキスト記録「知っておきたいフジタの話 足あと・筆あと・そして人々」